概要

美術、音楽、文学、日記、誤記

8.16.2015

フロム・ア・ジャックオフ・マシン#7


from a jack-off machine#7


 他者に対しての怒りが失せるにつれ、おのれへの怒りと苛立ちと焦りが不覚にも顔をだすようになった。じぶんに対して牙を剥き立てて吠えまくる。自身で自身を喰っているようなありさまだ。またしても過古への郷愁、そしてかれらかの女ら、過ぎ去った登場人物たちに受け入れられたいとする、承認願望が滞留する。これには参る。まったくまえへと薦めずに穴にはまりこんでしまったんだ。それはそれはたちのわるい穴ぼこにだ。けっきょくはただの感傷に過ぎやしないのに、おれはかれらかの女らを追ってる。けれどもおれは産まれつき、俗界からはみだしてしまったものだ。エピクテトス曰く「欲求はさしあたりまったく捨てたまえ。というのは、もしきみが私たちの権内にないもののなにかを欲するならば、きみは不幸にならざるをえないだろうし、また、私たちの権内にあるもののうちで、およそりっぱに欲することのできるかぎりのものは、なにもまだきみの手のとどくところにはないだろうから」という。然りだ。あなたたちにおれが求めるのは、けっきょく不幸せの根源でしかならないうえに、おれが欲しがってる関係性や承認などというものはけだし、まだいまの段階では手に入らないものでしかないからだ。ときに愁いに沈み、世界が歯痛みたいにおもえてくる。そんな状態を癒やしてくれるものはどこにもない。けっきょくはお別れをいうしかあるまい。おそらくこの一年はいままで以上に「さよなら」が似合う歳になりそうだ。おれと多くのひととでは、生まれついた場所があまりにもちがう。このまま普遍性とやらに拘っていては、ひとりの人間にはなりえない。けだものくさい奇人、変種の類いとしてさまよい歩くしか生きようがなくなってしまう。屹立しなければならない。けれども、これだってただの腹づもりでしかない。決定打ではない。ただのおもいのひとつだ。実行は先延ばし。夏はうごきようがない。
 ここのところ、室のなかのものを売って酒を呑んでた。いままで物質に過剰なおもいいれを抱いて過ごしてきたが、ここへ来てそれもようやくおしまいに近づいた。酒を呑みながら過古に書いた作品を読み返し、聞き返した。少なくともこの町にやって来た当初のほうが、書くことに真剣だったし、笑いも勢いもあった。だのにおれはものをつくりあげることへの獣性がかった執着を忘れ、いつのまにやら眠ってたらしい。だから書くものが死んでしまったんだ。ここいらでちょいとやり直そう。ふるい因習から抜けだして、あたらしいところへいきたいものだ。近頃はとにかく家族のルーツや偉人たちの生涯に夢中だった。けれどもそんなそとの話しはもううちゃってしまおう。おれはおれでしかないし、だれかの代わりでもなく、何者でもなく、ただひとりの最初の人間でしかないのだから。もうここいらでわるい夢から醒めるべきなのだ。醜いものに焦点を合わせるのはもうやめた。いまからは自身にとってよりよいものに眼をむけるしかあるまい。そのためにはまず知性とやらの価値設定を下げなければならない。知性はあくまで道具であって目的ではないからだ。あくまで獣性と霊性によって書くしかないんだ。それはとてもさびしいが、さびしさを笑い飛ばす勇気を以て挑むしかあるまい。そうとも。昔書いた歌にこんなのがあった、──"去るだろう、はらからどものうしろより熾きにむかって歩むぼくらは”──もはや過ぎ去った群れを恋うるのはやめだ。あくまでかれらかの女らは無理解だし、理解を求めるのがそもそもまちがってる。どうあがいたところでかれらはおれを迷惑な人間にしかおもわないだろうし、一瞥もくれやしないのだから。おれにはそういったひとびとに対して、対象性を広げ、作品をだしつづけることはできるが、作品のそとにはなにもするべきではないし、また気に入られようとする必要も責任もありはしないんだ。だから落ち着いて息をして、書き綴る、ただそれだけだ。
 ただそのいっぽうで手放せないおもいもある。それは好きだった女たちへの思慕だ。こいつの処分にはかなりまいらされてる。けっきょくは作品に昇華させることでしか、決着つけられはしないのだろう。いじましいまでの恋歌をつくることだけが、この世界に去勢されないための防禦であり、いちばんの攻撃なんだ。そいつにかの女らがどう感じとるかなんざはまったくの二の次でしかない。いつか商品にでもなったら、そのときだけはかの女らのなまえをそこに献じてみるのもいい。いつか個展やライブをやるときにでも葉書をだしてみればいい。けれどもいまはまだ発想の抽出源だ。ありあまるおもいを抱えて過ごすしかあるまい。
 果たしてこういうわけで、おれはやっていくことにした。来週から作品の売り込みに歩く。もはやひとびとを恐怖しながら睥睨する必要はない。もはや恥辱と詛いのレッスンは終わったからだ。これからは喜びと寿ぎだ。この十年というもの、さまざまなところを渉り歩いてきた。郵便局、飲食店、工場、技術派遣、飯場、寺、倉庫、配車係、大衆劇団、病院、どや、施設、路上、更正センター、カプセルホテル、そしてこのアパート。そのあいだ、ひろんなひとに出会った。やぐざ、娼婦、男色、役者、テレビマン、僧侶、日雇い人夫、土方、手配師、口入れ屋、中間業者、精神病者、アル中、ルンペン、詐欺師、作家、画家、演出家、詩人、音楽家、批評家、編集者、印刷業者、出版業者、あとは正体不明のやからども。
 もう普遍性というまぼろしに惑わされ、ゆがめられるのはたくさんだ。おれは欲しいのはまやかしやうそが通らない世界だ。若く、あるいは幼い時分に植えつけられたわるいレッテルを剥がし、自身の人生を、だれのまねでもない人生を送ることが、おれのあたらしい使命だ。とりあえず彼岸は過ぎた。あとは立ちあがって、歩きだすだけしかない。とりあえず、でていこう。
 それではまた

8.07.2015

ロードムービー、ロックンロール、アメリカ、天使

 *ロードムービー

 かれらはたがいになにものかを識らない
 むしろ識るためにともに歩き、または走る必要があるということだろう
 わたしがおもうに自動車や道は、自動車や道のように見えるだけの装置であって、
 それらそのものではない道標なのだ
 映画はそこに介入するものの、かれらの関係を解釈しようとはしない
 それはしてはならないことなのだ
 だからこそ映画は映画でいられる
 やがてかれらがわかれようが──かれらはわかれることになっている──映画はなにもしない
 それが映画を映画たらしめてるのだ
 では観客であるわたしはいったいなにをしてるのだ?
 それはおそらくかれらを追うことだ
 わたしはかれらなしではいられない
 かれらこそわたしを奮い立たせてくれる存在だから
 遠く、遠くのほうまで追いかける
 やがてすべてが暗転して
 なんにも見えなくなるまで
 ロードムービーはつづく

 
 *ロックンロール

 チャック・ベリーを識ったのはマーティ・マクフライを通してだった
 深海のダンスパーティーでかれはギターをかき鳴らした
 タッピングをした、背中で弾いた、アンプからジャンプした
 そして舞台のうえをもだえるように、蛇となって動いた
 わたしはまだ二歳だった
 それ以来わたしはロックを飽きもせず聴いている
 十四歳のころ、わたしは幼馴染みにいわれた
 おまえがロックを聴くなんてヘンだだって
 だけれどロックンロールは誕生以来、
 あまねくひとびとに契機を与えつづけてる
 わたしも与えられたひとりなのだ
 だからきょうもロックとともに
 おもい描いてる
 教科書に立っていた同級生の女の子たちのことや、
 広告のなかの素敵な女の子たちのこと、
 音楽雑誌の批評文のあの皮肉めいた文明を、
 すれ違いざまにぶつかってきたあらゆるおかしなできごとなんかをだ
 やがてすべては物語にかわってしまうから、
 わたしは作品以前のひとびとやものたちをできるだけ抱きしめたい
 抱きしめたいのだ
 放したくはないのだ
 ロックンロール、
 きょうもありがとう
 そしてあしたこそさようなら、だ
 「ロックンロールはひとを苦悩から解放させない。苦悩を抱え込んだまま踊らせる」
 これはピートの科白、でもザ・フーには興味がない
 わたしは「おまえはおともだちじゃねえんだよ」といったときの宮本が好きだ
 「願いによって神に祈ることなどできるものか」と叫んだジムが好きだ
 ロックンロール、それは神が遣わした、
 男のための苦汁である

 *アメリカ

 幼年期から棲むわたしの幻影のアメリカ大陸
 なまえのない通り
 あるいはその場かぎりのなまえを与えられた通りや町やビルディング、アパートメント
 プードルスプリングは存在する
 ベイ・シティも存在してる
 チャンドラーのハリウッドから
 グーディスのフィラデルフィアへ
 ブコウスキーは「涅槃」というなまえの詩でこう書いていた
  目的を
  すっかり見失っては
  あまりチャンスは
  望めない、
  かれは、バスに乗って
  ノースカロライナ州をぬけ
  どこかへ行く途中の
  若い男だった(訳=原成吉/「ユリイカ」95年5月)
 いっぽうトラビスは、テキサス州パリスで仆れ、
 息子ハンターともにヒューストンへ妻ジェーンを追いかける
 それは一九八四年のピープ・ショウだ
 男も女もやがて穢れていく子供たちもみんな悪夢をアメリカン・ドリームへと欺こうとして詩を書く、小説を書く、絵を描く、マスを掻く
 いちど失った友愛は決して二度とは帰って来ないというのに
 ビッグ・ガバメントの垂れ流すまやかしにやられて
 どこにも行き場を見失ってしまうのだ
 好機はそのものにはちがいないけれど、まるで紙切れのようで、
 いちど握ったらもう使いものにはなりはしないのだ
 さてサンアントニオを振り切ったトラビスはハンターに伝える
 「じぶんが触れようとするものが怖い」と
 そうしてジェーンとハンターを結びつけて消失する
 いっぽう一九六六年ニューヨーク州バッファッロー生まれのビリーは、
 誘拐した女の子レイラとモーテルで九八年に結ばれた
 わたしはそんなアメリカが愛おしくてたまらない
 「戦争に勝った国の映画なんか観ない」と清順はいったけれど
 わたしにはどうしても必要な毒物がアメリカなのだ
 一九八四年ジャームッシュは"Stranger than paradise"を完成させ、
 アメリカのぶ厚い皮をひったっくってしまった
 あの三人、かれらはニューヨークの片隅からフロリダへむかい、
 トム・ウェイツは臆病者の実験音楽、
 リッキー・リーが"マガジン"をだし、
 西脇市民病院でこのわたしが七月三日に産まれた
 でもそんなことはどうだっていい
 ラブホテルの看板"TOM BOY"の燦めきを感じながら、
 わたしはアメリカを記述している
 東海岸よりも西海岸が好きだ
 ブローティガンは、
 銃でみずからの頭をふっ飛ばした
 ああ時が流れ、
 草の葉が夏色に染まる
 子供のころずっと夢だった、
 デロリアンにまだわたしは乗ったことがない
 もし手に入れたらば、
 さてどの時代にいくべきだろうか?
 
 *天使

 きみの電話番号を教えて欲しい
 いつでも声が聞えるようにだ
 きみにはいつも世話になっているから
 どうしたってお返しがしたいのだ
 きみにとってなにが喜びだろうかしら
 わたしはわたしでなかったころの記憶を憶えてる
 わたしは木の畝にうずくまる哺乳動物で、
 麓のホテルから漏れる灯りをいつも物欲しそうに眺めていたのだ
 これはいつかきみが教えてくれたこと
 まだ憶えているだろうかしら
 これまでに何度も病院の寝台のわきできみと一緒に過ごしてきた
 二十九歳の六月がとびきり印象深くおもいだせる
 眠れないで朝を迎えたとき、
 突然温かいものがわたしを包んだのだ
 おかしな気分だったけれど気持ちがよかった
 胸のうえを大きな手が撫でてるような触りだった
 それはたしかにきみの羽の感触だった
 わたしはきみに気づいた
 そして太陽を見た
 永遠そのものが唇ちをあけて笑ってる
 いつかまたふたたび会おう
 今度は病院のそとで
 わたしにとっての疫病神であるアルコールをやりながら、
 犬のラベルのシェリル酒をやりながら、
 今度はきみの告白が聴きたい
 産まれたばかりのような、
 物語でも
 小説なんかでも
 ない、
 作品以前の作品を
 一緒になって回転木馬にゆすぶられながら、
 さ、  
 どうか、
 叶いますように、
 さ、

8.06.2015

地獄のロッカー




 いつの日もひとりのときをなごすのみはつなつのわが夜ぞありぬる


 昏きわがほほえみありぬぬばたまの夜を過ぎゆく貨車はただ失せ


 レコードのノイズは室を充たしつつひとりのものをあざ笑いたり


 はらいそを識らずに落ちる御身あり視あぐるのみの劇の中絶


 花かんざし落ちていちめん花ばかりどうしてなのかぼくに尋ねる?  


 吹きあぐる地の塵われの蘆を越えみかどのうえのカミへゆき給もう


 うすわらうひとらの若きかげなるを唾棄してなんぞ復讐足りえず


 戦いの装いほどく指とゆびわれらの契りもはや枯れ果て


 あえかなる地獄のロッカーうきわれをさびしがらせて歩み給えり 


 聞きはべりし少女の憂い吊されて血をぬかれゐる兎へのせんちゃく


 磔刑の姿に擬せてつくられし用品店のひとがた発光す


 HAPPY END叫びつつあり海邊にてもっとも黒い波を求むる


 あまねくを荒れ野に譬え歩みゆくもはやかのひとを呼ぶ声もなし



 十五歳──コンビニエンス更けゆかん性よ艶本買いに歩きさまよう


 吹かれつつ地下のくらがりさ迷いて拳闘士のような男われ視る


 残りなく降る夕立よかえらぬか遺失物なるわれの足址


 屠殺女の乳のふさ薄々とくらがりにきょうも牛の唇ちは吸う


 教科書のなかに立つてる昔日のきみよもうすでにぼくは穢れた


 もはや手遅れといいながら莨をふかす最后のバサラや

 



 

8.04.2015

「神々のたそがれ(HARD TO BE A GOD / 2013 露西亜)」


 アレクセイ・ゲルマン「神々のたそがれ(HARD TO BE A GOD / 2013 露西亜)」を観た。元町映画館にて。
 この映画は「地球より八〇〇年文明の遅れた異星へ派遣された学者三〇人」のうち、貴族に扮したドン・マルータことアントン(作中でこのなまえはでない)を主人公に、知性というものが弾劾され、虐殺されていく社会を描いている。キャメラはつねに不安定に、ひとびとのあいだを行き交いながら中世のごとき王国の首都アルカナルを映す。マルータは、灰色隊と呼ばれる、灰色の服を着た家畜商人や小売人からなる集団から、知識人を護ろうとするが──。かれはけっきょく「地球には帰らない」と宣言し、この惑星にひとりだけ残る。雪にまみれた平原。かれはいう。「神であることはつらい」と。
 ひさしぶりに映画館で映画を観た。前回は「ノーコメントbyゲンスブール」だから、もはや一年以上が経っているわけだ。正直この映画には戸惑った。まったく情況が観客に知らされないのである。小生もパンフレットを読んでようやくわかりはじめた次第。映像は美しいというよりも、醜く凄惨である。はじめはマルータという主人公を発見するのにも苦労がいった。しかしそんなことなどどうでいいくらいの、観るべき映画だった。異星にとっての神であるマルータは、けっきょく護るべきものを護れずにうなだれる。死体と奴隷たちにかこまれてかれはあのあといかに生きていくのか。

公式 http://www.ivc-tokyo.co.jp/kamigami/
まとめ http://matome.naver.jp/odai/2142702683448560401

8.02.2015

フロム・ア・ジャックオフ・マシン#6

from a jack-off machine # 6


美人不来空断腸──李白


 本格的に離郷して今年で五年になる。「本格的」というのも、それまでは仕事が途絶えては実家に帰っていたからだ。時はまわる、あまりにも早くに。そしてわたしは二十七から三十一になった。そのあいだ女はだれひとり、わたしのところには来なかった。あまりの惨めさに泪さえしたこともある──などといってみたところでわたしは太平楽であって、いまはただ創作と戯れて過ごしてる。なんとも気分がいい。喰うものが残りわずかという点をのぞけばだ。先に挙げた、李白の詩のような気分はたしかにある。昼夜の別もなく、現れては消える。だれかと印象深い邂逅を演じてみたい。そして愛を創造したいともおもう。噫。
 あれやこれやとからだをいじくりまわしてるうちに七月が終わってしまった。いままででもっとも変動の激しい産まれ月。とてもじゃないがブッチャーズの「7月」を聴いてるひまなどなく、医者にもかかりどおしときた。わたしは生来の病者だ。産まれてこの方、病気という病気に貧しいおもいをしたことはない。ただ治す機会を得られなかっただけである。一時は死にむかっての引力がとてもつよかったこともある。今年の、少なくとも二月までは死ぬことであたまがいっぱいだった。ノートをひらけば最期の科白をいかに決めるかではちきれんばかりだった。けれどそうした馴染み深いおもいとも、もはやさよならだ。わたしには充分な可能性と才覚がある。いまはまだ夢という語が照れ臭いが、それでもなんとかかたちらしいものは見えてきた。いまはただただ壊走だ。みずからを修理にだしながら、ものを考え、書いてる。ちらかりきった室でだ。それもこれも不幸からでた幸福にちがいあるまい。去年の十二月一〇日からの泥酔と自己破壊、そして傷害事件──あらゆるわるい種子を蒔いてきたんだ。そろそろ落ち着こうじゃないか。じっくり本を読み、ものを考える時間がいま必要なんだ。手許には、福田恆存「人間・この劇的なるもの」、木田元「反哲学入門」、コリン・ウィルソン「夢見る力」、芥川龍之介「奉教人の死」、笹山久三「郵便屋」なんかがあって読み終えるのを待ってる。早くしなければならない。ものを書くには、創造するには、それなりの準備が必要だ。今年はとにかく散文を磨きたい。他所から言葉を借りずにできるだけ走りたいのだ。そのためにはやはり入力作業がいる。みずからの脳内を拡張しつづけなければ、いいものは産まれないだろう。しかしすべてが苦行になるのなら、すべてをうっちゃるしかあるまい。快楽がなくなったとき、それは役を降りるときだ。藝術からクビを言い渡されるというときなのだ。そんなときは黙ってやめ、恢復を待つしかないだろう。
 ところでブログの題名を「朝の託」に変えてしまったが、やはり「夜の──」のほうが創作と思考にはふさわしいような気がする。だれもが眠ろうとする時間帯こそ、言葉は目醒め、羽ばたこうとするからだ。あまねくものづくりは夜の果ての旅である。昼は本を読み、町を歩く、ひとに会うこと。そうやってこころを養っていきたい。幸いにも悪名高き湊川病院でわたしは三人のひとと知り合いになった。かれらも相当な閑人な様子で、病苦をべつにすれば、話しが通じる仲だ。わたしはこの関係を最大限に生かしたいとおもってる。相手方からすればたぶん迷惑かも知れないけれども。

 はじめてとなる歌集をそろそろだしてもよかろうとおもう。というのも今年数年ぶりに新人賞というやつに手をだしてみて、合否はともかく歌を詠むという行為そのものにしっくりといくものを感じたからだ。作歌をはじめてもう十四年。いまだ古典文法に怪しいやっこだが、とにもも書くにも歌の美意識は作りあげたつもりである。挿絵入りの冊子形式のやつを、とりあえずは電子書籍として「Wook」から販売するつもりだ。なによりもわが師・森忠明がわたしを歌人として紹介したいといってくださってるのがありがたい。輯録作は、最初期の「青と黄」から、六年まえの「みそひともじの長いお別れ」、近作の「経験」と書き下ろしから撰ぶ。そしてある程度の評価を獲たら、紙としてもだすつもりだ。これは「a missing person's press」からの第二段めでもある。十月までにはなんとしてもかたちにしたい。それには万葉集や古今和歌集の再読が必要だ。日本の古い作品を読むこと、それが最近の読書体験に欠けてた。これではいけないのだ。基盤を形成しきれない。たしかにここ十年のわたしは国内ものよりも外国の作家のほうが好きであるし、惹かれてもいる。しかし翻訳ものに浸っていれば日本人作家としての責任を果たさなくともいいのかということである。いくらうわべの巧い贋欧米文学を書いてきたところで、獲られるものは貧しい虚栄心だけだ。たとえばだれもかもが「カラマーゾフの兄弟」を読むべきだという。「悪霊」や「死の家の記録」を読めという。しかし、みずからの核となる体験と思考をうちがわからず、体系化もせずに浴びるだけだけではやはり文藝におけるフォルムの重層化にしかならない。路上の塵から、天皇そして超自然へと繋がる順路を見つけなければ、いつまで待っても、翻訳とその客体として文学に冒されつづけ、匿名性をつよくしていくだけだろう。
 それにあえて沈黙を遮って読むのだから、痛々しいまでの肉声と必然性があってしかれるべきだ。それがいままで偶然をあてにして生きて書いてきたわたしの償いだ。いまはただとにもかくにも古典だ。なにも鎖国しようってんじゃない。自身の存在が明確になってこそ初めて読書体験は有益になると考えるからだ。
   ところで大阪のどっかに棲んでるらしい姉の誕生日がちかい。一歳うえ、既婚。IBMの技術者、わが姉ながら美形とおもってる。はじめて姉の八月三日の誕生日に花を送るつもりだ。短歌を三首添えて。いい加減いつかわれわれも、──わたしに罪と罰があるにせよ(わたしはきれいな姉の顔を七年まえの夜、撲った)──歩み寄らなければならない。もう怨み妬みはたくさんだから。
 じゃあ、おやすみ。



                            炎天に失ふかつて交わされぬ声声よもはやわれに帰らず
                                                                                
                        姉君や遠き都市にて融けゆきぬ吾よりつたなく生くることほぎ
                                                                                
                        太陽神牛の首を射抜きつつ趨れるきみが召しゐた八月


7.20.2015

The Velvet Underground and Nico '66

Primal Scream - Swastika Eyes

 

 マゾヒストにはたまらんだろうな。おれもそのひとりなんだが、どっかでこんなプレイできないか、だれぞ教え給えだ。

星に願いを - 映画「ノーライフキング」主題歌



 小さいころ母方の祖父が、テレビ録画したNHKの「さくらももこ物語」をビデオで寄越してきた。「さくらももこ」はおもしろかったが、それが終わったところで、雨に打たれて立ってる少年の姿が現れた。なんだろうとおもってるうちに少年たちが走り、コンクリートの壁をまえに喋ってた。「──きのう、うちのおじいちゃん死んだんだ。──おじいちゃん、死ぬまで生きたんだ」。やがて主人公らしい少年が父と母と出会う。そこでこの「星に願いを」が流れる。
 高校生のころにネットオークションで中古ビデオを買った。じぶんはテレビゲームのない家庭で育ったせいか、いまひとつゲームに詛いと寿ぎとを持ち込んでしまった少年たちと、うまく呼吸できないのだけれど、さわやかで美しい映画だった。いまだにDVDになってないのが驚き。

7.07.2015

長篇断片

*日記

 十二月十五日、おれのなまえは二一五になった。この葺合警察で今年二一五番めに勾留された容疑者というわけだ。留置場はひろく清潔だった。とりあえず、蒲団を敷いて一晩眠った。翌朝取り調べのつづきがはじまった。その日の行動を逐一喋らされた。単に移動だけなく、呑んだ酒に対する反応までもが繰り返された。へとへとになって答える。自身の事実が疑わしく感じられ、なぜ話しているのかさえもわからなくなってくる。あっというまに昼飯だ。房に帰って喰らう。うまかった。味つけが濃い。ラジオ放送が短くあった。公共放送のニュース番組のみが流れてた。ほとんどなにを喋ってるのか、くぐもってて聴き取れない。それが終われば音楽がしばし流された。歌謡曲の唄なしの変奏がかかってた。
 しばらくしてから物品購入の日が訪れた。おれはノートとペンを所望した。けれどペンは持ち込み禁止指定で、署員から借りるというかたちになった。二十三日に届くとすぐに書き始めた。まずは「短篇メモ」だ。〈まだまだわたしには中長篇はものにできない。「月曜日と出会うとき」をふたつの短篇にすることにした。まずは冒頭から女と車で出発するところまで、つぎは老人との場面のみ。──もしかすると、車中での一夜の件も独立できるかも知れない〉。つづいて「自裁にむけてのノート(一)」を書き始めた。〈かの女はおれを否定した。終わりまでひとこともなしにだ。そしてわたしはひとを撲った。果して望み叶わず、報道されないことがわかったが、事実は事実だ。この留置場をでたら、匿名でこの事実を広める。そしてマスメディアに訴求しよう。そして一月中に創作を片づける。女を諄く。種を蒔く。女が産れたら"鶫"、男が産れたら"秋良"と命名する。/ とりあえずは公衆電話から神戸新聞へ"問い合わせ"。つぎに掲示板へ。そのつぎに文藝投稿サイトへ密告。あとは流れに任せる。死にむかって〉。つぎにかの女にむけての手紙を考えた。絵葉書ひとひらきりにしよう。あの絵を使おう。絵の題名はまだない。──こうしよう、「酔いどれた女祈禱師」だ! ──〈Yさんへ/この葉書をあなたが読むころ、わたしはすでに死んでいる。あなたが素直に「きらい」とか「気持ちわるい」といってくれればどれだけ救われただろう。わたしはただ普遍性のある会話がしてみたかった。わたしはあなたと再会したかったのだ。あなたがわたしをどうおもおうとも、わたしはもう怖くはない。なぜなら、あなたの仕打ちによって、沈黙によって、わたしは死地へと追い放たれたのだからだ。けれども、この事実もわたしの存在もあなたはたやすく忘れてしまうのもわかってる。たやすくあなたは黙殺できるのだ。まるで地方紙のちいさな求人欄みたいに、一分と経たずに忘れてしまう。──男は愚かに生き、女は愚かに生きる。──だれかがそう書いていた。あなたはこれをどう捉え、どう解釈するだろうか?〉以下、Joy division"Insight"歌詞全文掲載(ただし曲名などは提示しない)。そしてつぎのページには「創作」と書いた。〈手記「夢は失せ、馬はくそをひりだす」を完成させること。短篇集「旅路は美しく、旅人は善良だというのに──そのほかの短篇」。
    全歌集──「こいつを三人のYなるひとへ 
          15歳だったYukako 
          19歳だったYuhko 
          23歳だったYuri 
          かの女たちに永訣を捧げながら」  
          yuri
          初期歌篇
          yuhko
          ──短歌研究への投稿作
          ──角川短歌への投稿作
          ──極私的なもの
          ──死にむけてのもの
          yukako〉。
 十七日水曜日おれはそのほか大勢と一緒にバスに乗った。送検だ。寒さでからだが震えた。吾妻通りから国道にでてまっすぐ。いちど高架を奔って港に降りた。どうやらそこは水上署だった。ゆっくりと車庫に入り、薄青い扉が開く。だれかがでてくる。けれどいっこうにバスには入って来ない。なんのために来たんだ?──そのまんまで署をはなれ、神戸地検に乗り入れた。そして繋がれたまんま冷たい階段を昇らされた。サンダルを履いた素足が切れそうな寒さだ。なかに入ると、右手に職員の詰め所、左手に牢が並び、真ん中を狭い廊下が奔ってた。紺の制服をまとった公僕どもがふたりひと組になって、被疑者たちの拘束を解除し、しかるべきところへぶち込む。 

 ある朝、Y部長刑事がでかけるといった。手錠をかけられ、それを隠す、特製の布のカヴァーをかけられた。そして車に乗せられた。ひさしぶりの外界に肺の空気が引き千切れそうだった。かぜに皮膚が強ばった。車は大安亭をはなれ、いっぺんに三宮駅の高架下、パチンコ屋のまえにきた。現場だ。胃がひきつった。苦い味が奔った。それでも刑事たちは平然としてる。かれらは写真を撮った。そこをはなれると、今度はわがアパートメントへむかった。懐かしい、恥ずかしい気分だ。下車すると、刑事たちに囲まれて階段を昇った。室の鍵はあけっ放し。心配はいらない、だれも訪ねては来ないから。──室に入って、あたりを見渡す。盗まれたものはない。ここで精神障碍者手帖と自立支援医療受給者証の撮影してから押収した。そして帰って来ると、署の最上階まで昇り、だだっぴろい道場で犯行の一連を再現させられた。背のひくい、ひ弱な警官を相手に、拳をくりだした。しかしやはり背はひくすぎる。おれが左上にむかって右の手拳を発条にしてくりだしたというのに、かれの顔はちかすぎるんだ。ぎこちない動作は下手な新派劇の芝居をおもわせた。笑いのない喜劇。写真を何枚も撮られて昼、房へ帰された。昼飯だ。ちいさな扉があいて弁当箱と箸の抱き合わせが入れられる。赤い弁当箱に黒い箸。ジュリアン・ソレル、青い種子。蓋をあけると長方形のなかにカレーライズときた。スプーンはない。そいつを箸で掻き混ぜる。カレールゥがまんべんなく米に搦んだら、筺の角を利用し、箸で掻き上げながら口に運んだ。なるたけ早く喰わなければならない。またしてもラジオがなにかいってる。なにをいってるのかはわからない。見あげる扉のむこう、看守の守に湯気があがってる。きっと茶を沸かしてるんだろ。ふたたび眼を降ろし、筺のなかのカレーをみた。喰い終えると、ふたたび看守がちいさな扉をあけ、手を入れ、弁当箱と箸と湯呑みとを回収してしまった。
 二十五日になって起訴通知がやってきた。もうここでの生活も厭きてしまった。なんとか勾留から解かれたい。もう夕刻だ。ただただ腹を空かすだけ。弁護士は来そうにない。たぶん翌る日の勾留期限の日だろう。保釈を頼むつもりだ。都合の善いことにおれには友人もちかしい知人もない。親姉妹とは袂を分かってる。しかも田舎は公共交通機関も通ってない字地だ。金もなく、精神面の問題で通院とカウンセリングの必要もある。ズボンは破けてしまってる。防寒着も必要。鍵の交換代金も要る。──これだけで理由は充分だとおもえる。なんとかして来週中にはでたいもんだ。なにせ今年中に冬の海が見たいからだ。
 自裁についての決心は頑なだ。もう感情にふりまわされるのはごめんだ。HとT先生に連絡をとろう。Jの親には謝っておこう。Fにも手紙をだそう。かの女にはZへの謝罪を伝えてもらうために。──いま房より買ったヘミグウェイ短篇集〈3〉を読んでる。「だれも死なない」、「一途な雄牛」がいい。特に後者はまるでおれの写し絵だ。

 火曜日、おれは「出エジプト記」を注文した、それは誤りだったとおもってる。レイモンド・チャンドラーにすればよかった。なにを格好つけてるんだ、おれは。──これからはできる限りを記録していこうとおもってる。それこそおれが最期にできる抵抗だからだ。いまはいろいろなことをおもいだしてる。Dはクラスで唯一、あの出来事のときに声をあげてくれた女の子だった。かの女にも絵葉書を送ろう。どの葉書にも"Insight"を引用したい。
 今週から入った相部屋の支那人はそわそわしてる。立ったり、坐ったりだ。そしてかれのノートには文字がびっしりつまってる。いったい、なにを書いてるんだろうか。