7.08.2014

一人芝居



挑発しつづけろ、しかし挑発に人間性を忘れてはいけない──ゲンスブール



 N氏がわたしを「ポエム・フェスティバル」に誘ってきた。十一日の昼間っから詩についてうだうだを聴かなくちゃならない。なにか出会いを期待するも、それはほとんどといっていいほど儚いものだ。なにせ詩人というのは自尊心がかなりつよい。──わたしも含めてだが、かれらはいちばんでなければ決して満足しないんだ。
 「なにが欲しい?」と尋ねれば、十中八九答えは決まってる。
 「いちばんになりたい」と。
 正直もうたくさんだ。詩人同士の馴れあいなんぞケツくらえだ。だからいわんこっちゃない、知らずしらずにわたしみたいに鴨に成り下がってしまうんだ。つい数時間まえ、わたしはある詩人きどりとやりあいになった。結果はドロー。まさに泥仕合。やつのコメントを「文法パトロール」や「ケツでも囓れ」とからかって以来というもの、やつの詩に批評をくれてやったというもの、「現代詩フォーラム」の私信がぱんぱんになった。みればやつときたら、わたしのコメントのリンクをわたしの投稿の随所に貼りつけて、勝ち誇っていやがるんだ。曰く「吾輩は汝の鏡なり」。中学生ならともかく四十五を過ぎた男の科白ではあるまい。こっちが恥ずかしいくらいだ。どうかしてるやろうにであったのは、はじめてでないこちらも、さすがは慄然としてしまった。しょんべんちびるくらいには。たしかにわたしの詩は一〇篇書けば半分以上くずだ。しかしだからといって意見する立場にないというのはまちがってる。かれのようにほんとんどの投稿にコピー&ペーストする行為はただの迷惑行為でしかない。だれもかれもがやつに対して慎重に書くのは、けっきょく厄介者だからであって、尊敬されてるわけでないのを知って欲しいもんだ。わたしのような気分屋ですら、そうおもうのだから、もっと真剣なやつは刃を研いでるか、みえないふりを決め込んでるだろう。それがいい、それでいいんだ。だからこんな駄文は読んだ瞬間に忘れておくれよ。どうせだれもよまないだろうが。
 ところで作品に対する反応に、おなじく作品に対する反応で答えないとはいったいどういう了見だろう。対話を、地上戦を張ればいいものを。たしかにわたしのファーストコンタクトは下品だし、責められて当然だ。しかしわたしはそれとおんなじくらいにかれの行為が上品にはみえないんだ。わたしが読みたいのはごまかしの利かない人間くさい作品である。しかしかれのは復古調で塗抹されたショートケーキだ。鼡の穴蔵を犬がほじくるような代物だ。文法や語法については完全にかれのお株だが、かれはわるい意味で人間の心理を解してる。つまりお得意の「心理学」からひっぱって来たのか、いかにすればひとが不愉快におもうかをだ。そこのところは素人はだしでまったく余念といったものがない。うまいものである。
 「ところであんたのほうはうまくいってるの?」
 「うまくいってたらこんなものは書かないさ」
 「ぶすにふられたようにみえるよ、いまのあんたは」
 「まあな」
 とりあえず、この情熱と方針の欠如した話題にはもうおしまいだ。まだいいたいことはある。しかし書けばかくほど下品になっていくだろうし、いずれ葺合警察のやっかいになるかも知れないからな。それにもうコメントなどブロックすればいいのだから。好きに勝手にすればいいんだ。
 ところで新しい詩集を母校である中学校に送った。そうしたら内容を問題視する教師がいて、協議中だといわれてしまった。もしかしたら送り返されてくるかも知れない。わたしが三年生まるまる不登校だったせいもあるが、かれらのやること、考えることなどしけたもんだ。ヤンキーどもには媚びへつらい、やりやすい相手にしか手をださないんだ。しかしわたしはすべてを赦すことにした。だってたしかにおれの書くものは下品で、一人称に頼りすぎ、でたらめだからだ。
 今夜はウイスキーがあってよかった。ランバージャックⅡを吸いながら、よろしくやってる。自身の子供っぽさにも、かれの子供っぽさにも幸あれだ。
 「またそうやって簡単にまとめる」
 「もう眠りたいからね」
 では失敬。

7.06.2014

七月/心



  おれ? おれは三十歳となった、
  町は四倍から五倍の大きさとなった
  しかし腐ってる
  そして女の子たちはいまでもおれの影に
  唾を吐く、別の戦争が別の理由で
  起こりつつある、そしておれはかつて仕事にありつけなかったとおなじ理由で
  いまもほとんど仕事につけない、
  おれはなにも知らない、おれは
  なにもできない(チャールズ・ブコウスキー「鼡」より)


 なんにもできない日乗がつづく。おれは三日で三〇歳となった。もうむちゃはきかなくなった。童貞のまんま、まさかこの齢になるとはおもってなかった。つくりかけの小説、そして音楽をまとめなくっちゃならない。なにもかもが苦行だ。ひととのかかわり? インターネット上の少数を除けば、おれにはなんにもないといっていい。それでも今月は詩のイヴェントと、わが雑誌「for MISSING/The magazine」のための話し合いがある。ようやくおれにも人間的なにものかの機会が巡ってきたというわけだ。好ましいことだ。いっぽう、母校の中学校と、その国語教師に詩集を贈った。前者は内容を見てから閲覧を決めるといった。とんだ、おまんこやろうどもだ。たかが詩集に協議がいるなんてどうかしてる。たしかにわたしの詩は美しくはない。即物的だし、生理現象についても語ってしまう。しかし、それは表現上の必要であって、なにもひとびとを不快にし、たぶらかすつもりはないんだ。
 おれは子供の時分から悪童たちの標的だった。それがいまや悪童じみた大人になってしまった。莨を吸い、酒を呑み、怒声をあげる。しかし、おれはいつも純真なつもりだ。山鳴りのひびきに耳を凝らし、泪を流すこともある。かぜどもが文学みたいにおもえる日もある。たぶんおれは病気にちがいあるまい。それでもおれは書かなくてはならない。それが唯一の存在証明であり、治療薬だからだ。老ブコウスキーもいってるように、「詩がなければ狂ってた」んだ。人間には救いが必要だ。磔よりも救いが、癒やしがだ。そいつがおれを囲ってくれるまでおれは書きつづけるだろう。詩を。小説を。絵を、曲をだ。たとえ惨めな人生だろうて生きるに値する、そう断言したいんだ。なにも信じられなくなったときのために準備がいる。それがこいつなんだ。おれを、人間を発熱させるものがほんものの詩情だ。つめたくあしらうものは詩でも文章でもない。霧のなかから立ち現れる発光体、そいつが詩だ。
 おれは言葉を歌の歌詞から憶えた。どうやってそれを生かしていいものかをわからないまんま、中2の直前になって使いはじめた。はじめはものまねだった。詞を書いて節をつけて歌った。しかしだれにも見せなかった。次第に歌詞は、旋律を忘れ、詩にかわてった。それが幸とでたのか、凶とでたのかはいまだにわからない。けれど詩は多くの出会いを産み、おれの人生に彩りを添えてくれた。まあ、おれに絡めてくその話をしたがる連中もまだまだいるが。ともかくこれからはほんとうに大人になるべきだ。匿名のコメントに踊らされつづけるのはよろしくない。自身にとってよりよいものを選択すべきだ。自己破壊衝動を押さえ、坦懐に生きること。すべてはおのれのうちにあるのだからだ。
 たとえ今後澱みに沈もうとも、最高の質でものをつくりたい。それがわたしにできる、たったひとつの冴えたやり方なんだ。たったいま十八時二〇分。デイモン・ラニアンを読みながらこいつを書いてる。最高の口語体だ。こいつを見習って小説を書こう。たとえ愛しいあの子がそれを嫌悪しようともだ。どうか職のないおれに職を、どうか愛を知らないおれに愛を、というわけさ。
 

  ここにあるだけの夢を川で遊ばせ 流れにまかせて流れに逆らい
  夜には静かな炎がもえ始め
  君に伝えたいだけでもどこにも君はいない うそにつつまれることがとても多く
  君の言うとおりなんとか目をそらす
  熱くなった体を川でなんとかさます 流れる想いはぼくを永遠に連れてく
  照りつける陽の下で
  流れる水につかり君をわすれ 暑さをしのんでいる
  かげろうがじゃまする ぼくの視界をじゃまする
  去年は君と泳いでいたのに 暑い夏の陽よどうしてのりきれば
  このままではすべて流れて行きそうで 
  ぼくを呼んだ様な気がして セミの声はひびく
  あふれるくらい たくさんの星の下 あふれる涙を必死におさえている
  星もないてる ぼくも涙止まらない ゆすらないでくれ さわらないでくれ
  あふれるくらい こぼれる星の下 あふれる涙を必死におさえている
  星もないてる ぼくも涙止まらない ゆすらないでくれ さわらないでくれ
   (bloodthirsty butchers - 七月(July) 心)

6.27.2014

日記


 頃日「風文学」という曲を中心に創作してる。きょうはおもに間奏部分をつくった。この曲はアルバムには入れないが、来月20日雲井通の「バックビート」で演奏するつもり。

 ○最近購入したもの

  音楽

eastern youth / 雲射抜ケ声(中古)
サニーデイ・サービス / MUGEN(中古)
エレファントカシマシ / 町を見下ろす丘(中古)
大瀧詠一 / 大瀧詠一
The Good Life / Help wanted nights(中古)
The Good Life / Novena on a Nocturn(中古)
John williams / The long goodbye
The Velvet underground / ICON
Tom waits / The Early Years Vol.2(中古)
Noel Gallagher's HIGH FLYING BIRDS

  本

ラニアン / ブロードウェイの天使(中古)
ハワード・スーンズ / ブコウスキー伝(中古)
Vincent Gallo, Tohru Okamoto / Buffalo '66(中古)
J=M・バスキア /  バスキア角川文庫(中古)
Charles Bukowski / more notes of dirty old man
Dan fante / Kissed by a fat Waitress: New Poems
 
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「風文学」

降り積む愁いしどけなくゆるい
黙りこくって見送った車窓
見知らぬ背中降り立った駅が
遠くかのひとのおもざしをみせる

相槌もなくさまようがままに
溶けだしていく輪郭は近い
便りはぜんぶ破かれてしまえ
きみらになにもわかってたまるかと

 冬の外気、立ち向かうはずが
 冬の外気、あっさりと打たれ
 首を振った、屈辱の果ての
 そこにはなにもない 

二月のかぜの文学はいつも
過ぎ去ってったひとみたく淡く
二月のかぜの文学はいずれ
皹われた手のひらに融ける

鷗が飛んだ質問のひとつ
答えもせずに見送っただけさ
右へ左と飛ばされるままに
ぶ厚いかぜの壁を蹴りあげる

 アベローネ、ぼくはきみのことを
 アベローネ、もはや書きはしない
 手を振った、むこうにはなにも
 むこうにはなにもない

5.25.2014

長篇草稿(1)


アベローネ、ぼくはもうきみのことは書くまい。──マルテの手記


      ○

  わたしは二十九歳。もうじき、七月三日で三〇になる。産まれた一九八四年はジョージ・オーウェルが描いたディストピアであり、リチャード・ブローティガンが自裁し、トルーマン・カポーティが斃れ、寺山修司は一周忌だった。そして七月三日はフランツ・カフカの誕生日でもある。わたしの好きな映画「パリス、テキサス」と「ストレンジャー・ザン・パラダイス」の公開された年。塚本邦雄は「チアノーゼ色の菖蒲を剪りてわが誕生日なり 生るるは易し」と「日本人霊歌」で詠んでる。たしかに易かった。けれど普遍的なものから一切追放されたわたしの生。その宣告は産まれたとき、すでに受けてたんだ。そしていまシオランの「誕生の災厄」をめくってる。かれはいう──「ヨブとちがって、わたしはじぶんの誕生の日を呪いはしなかった。そのかわり、わたしはその日以外のすべての日々を呪詛で塗りつぶしてきた」と。その言葉にただうなづくのみだ。
 素直にいって疲れた。この生に、このナカタミツホという人物に、すべてに。傷を抉りつづけるのはもうたくさんだ。生きるか死ぬかはおれの勝手だ。近々またも病院送りにされちまうかも知れない。いまの作品は秋には終わらせよう。そしてある冬の朝、ヘリウムを吸っておさらばといきたい。その前夜には商売女でも呼ぶ。そして金を払って普遍的なるものを疑似体験したいところだ。ふたりでただ並んで歩いたり、坐ったり、たわいもない話しをし、手を握ったりをだ。わたしはどうしてもわたし自身に我慢ならない。激しい躁鬱から早く逃げたい。その日までに室を片づけ、身奇麗にすること、作品をやり通すことだけが、現在わたしが生きる理由である。いずれにせよ、学習障碍、奇形、遺伝性の皮膚病、自己否定、他者否定、アルコール中毒、孤立などなどてんこ盛りではやってられない。
 再会を夢見つづけてたひとびとは、どうやらわたしを拒絶したらしい。ただふつうに会話をしてみたかっただけなのだが。もはやなにも感じない。表は驟雨だ。

 テレビはつけっぱなしで両親はいない。わたしはおもちゃのバイクに跨がって姉と妹をみてる。かの女らを好きなヒーローものの、ヒロインに重ねながらだった。わたしは姉にあこがれがあった。最初のあこがれ。これが最初の記憶だ。一九八八年くらだろうとおもう。やがて場面はかわり、わたしは生瀬にいる。バレエ教室だ。そのまえに坐って螺旋階段から下をみてる。姉はバレエを習ってた。そしてわたしはまったくの蚊帳の外だ。退屈も退屈で、いやとうほど時間を憾んだ。窓のむこうでは女たちが足をのばし、からだをくねらせてた。そしておれは滑り止めのある鉄板のうえでなにもできないでたというわけだ。
 そして九〇年代がやってきた。姉は小学校にあがり、わたしは幼稚園児になった。山口幼稚園。いやだった。そこが不愉快でならなかった。毎朝大声をあげて抵抗した。けれどだめだった。おれは薄汚れた建物のなかに放り込まれ、だれも助けてはくれなかった。そしてそこから他人という地獄に直面せざるを得なくなった。まずもってわたしはだれとも仲良くはなれなかった。だれかと遊ぶということを知らなかった。とりあえず、女の子たちの遊びに参加したものの、すぐに笑いものにされ、やめてしまった。またひとり遊びに戻った。大きな木のブロックでじぶんの城をつくるのに熱中した。そして先生には、遊び時間を延ばせと要求し、朝のお遊戯で唄う歌を口パクして得意げになったりもした。
 それでも次第に男友達が欲しくなってた。おなじバラ組の楠本武司くんのことが心にひっかかった。なによりなまえがよかった。タケシなんて男らしいなまえがだ。ミツホというのはオカマのそれだった。そうにちがいなかった。まがいものだった。じぶんにはべつに名乗るべきなまえがあっていいはずだった。まったく退屈してるとき、わたしはじぶんを探し回った。なんでおれは南光太郎でなければ、本郷猛でもないのだろうかと。
 あるとき、おもての庇の許でかれが遊んでいるのをみつけた。幸いひとりだった。なんとか声をかける機会を覗う。──そして声をかけた。でもだめだった。そいつは小さすぎてかれの耳にはとどかなかったのだ。それでもなにかのきっかけでかれの家にいくことになった。どうしてだかは憶えてない。やけに雲行きのわるい日で、団地の階段を母と登り、かれの家にいった。けれどそこにでも、わたしはひとり遊びをつづけた。みんながテレビゲームをしてるあいだじゅう、かれのミニカーをいじって時間を潰した。五時を過ぎた。母が迎えに来た。かれの母に呼ばれ、戸口に立った。雨が凄まじく降ってた。
 車の窓から団地を見あげ、ふいに激しいむなしさに充たされた。わたしはなんのために来たのだろうかと。ただただそれだけをおもってた。なにもできなかった悔しみを雨が代弁してた。幸福は遠かった。
 幼稚園といえば脱走だ。わたしは脱走の名人だった。ある日劇の稽古があった。わたしはカーテンの裏に隠れながら、一階へいき、傘をとった。その日は終日雨だった。わたしは鉄柵を越え、むかいにある公民館の庇に潜ると、喜びとともに傘を降ろした。だれかがきっと驚いてくれるだろう。だれかがきっと笑ってくれるだろうとおもった。しかしそうはならなかった。母はえらくお冠で、わたしを見下ろした。あいかわらず、わたしはひとり遊びをつづけた。給食のときはたいそう気詰まりだった。だれとも一緒になれないからだ。テーブルを一緒に運び、一緒に食べてくれるのはいつも女の子だった。会話もなく、残りもの同士で。
 遠足の日だった。担任のタマネギ先生はいない。若い先生が引率した。その道では男女で手をつなぐことになってた。わたしにあてがわれたのは、いつも悲しい顔した。黙りっこ、泣き虫で、手は湿ってた。気持ちがわるい。ただそうおもいながら歩いた。そして食事はまたも女の子たちと食べた。
  ボイコットもまたわたしの得意だった。劇の配役にケチをつけたんだ。若くて、かっこよくて、絶対に死なないひとがいいといった。そんなやろう、いるはずがなかった。好きな遊具をとられて遊べなかったら、休み時間が終わってからでも遊んだ。のちに中学で会うことになる佐々木というやつがよくわたしにちょっかいをだしてきた。両親は先生から精神科への受診を勧められ、えらく憤慨したようだった。落ち着きも頑是もない、この子供に手を焼いて終わりがなかった。
 わたしの家は山のうえの窪みにあった。生野高原という、もとは宝塚温泉団地と呼ばれた別荘地で、まわりには山と森と林と渓しかなかった。店は小山商店と床屋のみ。だからみんな車で移動しなければならなかった。この土地がいかんに困難かをおもい知らされるのはもっと成長してからだ。夜は枕を抱きながら眠った。そうしないと眠れなかった。そして巨大な退屈さを呪った。ひとりでいることのうんざりしてた。桂木健太に会ったのはそんなときだった。かれもおなじ生野の人間だった。二階へあがってかれに会いにいった。しかしこれもつかの間のことだ。なにが原因かはわからない。おもちゃでも毀されたのか、わたしはかれを家から追い払ってしまった。
 研修の先生がやってきた。かの女は若くてきれいだった。さっそくかの女を輪にみんながあつまった。わたしはいかなかった。ひとり木登りをはじめた。そこでへまをやらかした。ほんの少しの高みで降りられなくなってしまった。恥ずかしいおもいでおしろをみた。かの女が女の子たちと話しをしてる。しばらく経ってとうとうわたしは降参した。
    先生。
     なに?
    ──降りられません。
     すぐそこじゃないの。
     地面は。
    どうすればいい?
 かの女の指示に従ってなんとか降りてきた。かの女はあきれてた。あきらかにわたしをあたまの足りないものと見做し、わたしもいっさい話しかけはしなかった。 
 やがてクリスマスがやって来た。公民館ではモノクロアニメが上映された。「サイボーグ009」だった。サンタなんか鼻から信じてはいなかった。というよりもその存在についてよく知りもしなかった。つくりものの髭を蓄えた男がなにごとかをいって、騒いで、去ってった。みんな幸せそうで、それがいやだった。
 春はもうまぢかだった。わたしの組には姉の友人にそっくりな子がいた。それを姉たちに教えようとしたのだが、なぜかわたしが姉の友人を好きだという話しに変えられてしまった。わたしには抗うすべがなかった。あるとき、幼稚園の近くの民家で水撒きをしてる少女をみつけた。それは二番めのあこがれだった。
 ある日の帰り、母が道ばたの植物について話しをした。なまえは憶えてない。節があって、それを引っこ抜いても、くっつけられるやつだ。母はめずらしく穏やかだった。いつも妹の世話でかりかりしてるのがうそみたいに。

 北六甲台小学校は丘の住宅地にあった。わたしの隣にはブロンドの混血児がいた。東川真由美といった。はじめてみる、その存在にわたしは眼をみはった。奪われた。しかし邪魔が入った。うしろの星野秀明がわたしに囁くのだ、ジョークを。笑い上戸なわたしは負けてしまった。あんまり騒がしいので席の順番を変えられ、かれがブロンドの隣になった。悔しかった。
 やがてわたしは近所の年長者たちと遊ぶようになった。かれらはみんな、わたしにやさしかった。けれども学校はやはり退屈で逃げようのない場所だ。わたしは父と撰んだフランス製のランドセルをしょって学校へいった。変わったかたちをしてた。そいつがいたくまわりを刺激したらしい。ある日の放課後、けんかになった。岩瀬と政次とだれかさんにからかわれたわたしは鞄を放り投げてむかっていった。けっきょく鞄は犬のくそを塗られてしまった。わたしは三人を追いかけた。しかしもう遅かった。
 帰りの車のなかで母にさんざ叱られながらくそまみれのランドセルをちらりとみた。どうしようもなかった。それからは迷彩柄のずた袋をしょって通った。翌日わたしは浜崎先生にあらましを告白した。さっそく三人が壇上で謝らされた。先生はどうだ、赦すか? という。なにをいっていいのか、わからなかった。まるでじぶんがなにかをしでかしたような気分にさせられた。赦せるわけもなかったが、しかたなしに、なし崩しにもういいよといった。悔しくてならなかった。
 家に帰ると、けむりきのこを探しにいった。いたるところにそれは生えてた。踏んづけたり、壁に投げつけたりで、胞子の煙を眺めて楽しんだ。そして花の蜜を吸いに庭にでて、かたっぱしから花を引き抜いた。蜜は花びらの奥にあった。ちゅうちゅう吸いながら表にでた。いつものように年長の少年たちと遊んだ。かれらは木のうえにパレットを置き、基地をつくってた。わたしも乗せてもらい、その眺望を愉しんだ。
 ある休日父以外の全員で西脇にいくことになった。母の郷里であり、横尾忠則の郷里だ。母の実家は機織り工場がくっついた大きな日本家屋だった。わたしの愉しみは伯父の部屋にある漫画だった。石森章太郎の「仮面ライダー」があったんだ。しかし残念なことに途中までしかなかった。ちょうど一文字隼人の部屋が爆破されたところで終わってた。漫画の文庫化ブームはまだ来てはなかった。わたしは姉妹と一緒に駄菓子屋にいき、飛行機のおもちゃを買った。側溝ではきれいな水が流れ、春の光りに溢れてる。しかしわたしはどうしても祖母が好きになれなかった。いつのことだったかはわからない。ただあるとき、わたしが姉妹の遊ぶ室に入ると、ふたりが大きな悲鳴をあげ、飛び込んで来た祖母が故も訊かず、わたしをねじ伏せ、右手の親指をライターで焼いたからだ。わたしがいったいなにをしたのかはわからない。どうにもこの祖母はやっかいな存在だった。たとえばわたしが父の本──レタリングの本に熱をあげてたら、それをとりあげて隠してしまった。わたしはそれをまねて絵を描くのがほとんど日課になってて、自身にとって大事な遊びだったのにだ。わたしはわたしを阻もうとするものの正体を知りたがった。しかしどうしようもなかった。だれもなんにも説いたりはしなかったからだ。
 いっぽう学校では言葉の問題で苦しめられつつあった。教師がいった、──将来なりたいものはと。みんながすらすら答えていくのにわたしはつまってしまった。そしてだした答えが「普通のひと」だった。浜崎からすれば大変耳障りな発言だったらしい。かれは難じ、詰問した。どういう意味かというんだ。わたしは答えられず、泣いてしまった。かれは憤然としてそれに応えた。しかし、わたしは自身が普通でないことをこのときすでにわかってたんだ。ひととおなじようにできないことが、集団に従えないということをだ。幼稚園での数々の行い。だが、悲しいこと、それを言語にする智恵はなかった。哀れなるミツホよ、おまえは一生理解され得ないのだ。机のうえに飛び散った泪のつぶが電光に照らされ、そのなかにちいさな自身の顔をみつけて恥ずかしくなった。みんな、おれを寝小便でもかましたみたく眺めてた。
 それからしばらくしてまたおなじような眼に出会った。母が近所の公園にでた不審者について話してた。公園に車で乗りつけ、フェンスに蒲団を干し、子供をじろじろみてたらしい。しかし、これを浜崎に話すと、かれは浮浪者をばかにしてると受け取った。またしても不毛な私憤に煽られ、為す術はなかった。今度もわたしは失敗作として名指しされることになった。どうしてみずからの行いが、こうも喰いちがいを産み、そしてわるいほうにむかっていくのかがわからない。祖母にやられた灸みたいに、それはもはや言語を飛び越えてしまってた。塀のむこう、手の届かない方向へと去ってったんだ。
 あいもかわらず、わたしには友達がなかった。欲しいとはおもってた。けれど話しかけてくれるのもいた。岸本健祐というやつが、粘土をつかった授業のときにいった。
   これがジェット・コースターだろ?
 かれが粘土の塊りを示す。
   これがおまえのかあさんだろ?
 さらにちいさな塊りを示す。そしてジェット・コースターごと、机に叩きつけた。ガガガーーン! なんてことをとわたしはおもった。こんなことをいうやつははじめてだ。動揺してしまう。しかしそれを知られては負けはあきらかだった。だからわたしもやり返すことにした。
  これがおまえの家だろ?
 かれは首をふった。
   いいや、ちがうね。
  ちがわないな。
   ちがうね。ただの粘土だ。
  こうさ!
 わたしは四角く成形した粘土を平手で潰した。でもやつはわたしをほったらかしてどっかにいっちまった。けっきょくわたしはひとりで一台の自動車と、人間をつくり、提出した。じぶんでも最高の出来だったが、ある日公園で人間のほうをなくしてしまった。どこを探してもなかった。
 その年の誕生日。わたしはトミカの飛行機を贈られた。誕生会がひらかれ、近所の子供たちやその親が集まった。会が終わって飛行機に触った。毀されてた。怒りの矛先もなく、ただぢっと毀れた玩具をみながら、もうだれもじぶんのものには触れさせまいとおもった。しかし、そんな矢先、またしてもやられた。ある日曜の朝だった。わたしは買ってもらったおもちゃの刀をもってそとを歩いてた。そこへ中井竜之介と吉村大輔がきた。ジャイアンとスネ夫だ。そしてわたしはのび太だった。あッというまに刀を中井が没収してしまった。ふたりは走り去り、わたしは追いつけなかった。刀をようやくみつけたとき、それは道の脇におかれた建設残土のなかに埋められてた。土で汚れたそれはもうわたしのものではなかった。家にもちかえったものの、もう触ることはなかった。
 中井の家でも誕生会がひらかれた。わたしも呼ばれてしまってた。やつへの贈りものを撰ばなければならない。母と西友──もとはニチイだった──で探した。ちょうど欲しいものがあった。車の、プラモデルのついた食玩だった。けれど、探してるのは怨めしくて恐ろしい中井への贈りものだ。けっきょくそいつをふたつ買ってもらった。ひとつは中井に、もういっぽうはわたしにだ。うまくいった。誕生会はひどく退屈だったが。やつはありがとうのひとこともなかった。ただただへらへらしてるだけだ。わたしは急にばからしくなり、だれよりも早くその場をあとにした。
  学校、体育の時間。砂場で相撲をとることになった。男女一緒でだ。わたしの相手は東川真由美だった。かの女にはとても触れられなかった。あっけなく倒され、笑いものにされてしまった。
 第三のあこがれについて話そうとおもう。それはファミリーという六年をリーダーとして六人で行うグループ活動でのことだ。わがリーダーは愉快なやつで、グリーンハイツに棲んでた。生野高原をあがった、丘のうえの住宅地だ。あるとき、リーダーが糊のついた画用紙を手にわたしを追いかけてた。そこへ六年の女子がやってきてリーダーを咎めた。そしてわたしに笑顔をむけ、慰めようとしてた。かの女の顔には産毛がたくさんあって、がっかりしたけれど、とても惹かれた。一年の終わり、校庭で最後のファミリーがあった。かの女に渡すためのプレゼントを拵えてきたが、かの女をみつけることができずに校庭をあとにした。

3.22.2014

監獄の病者たち/断片



 「自由こそ治療だ!」という本があった。そいつによると精神科医であるフランコ・バザーリアが精神病院を解体したのは、一九七八年にバザーリア法が制定されたイタリアでのことだという。バザーリア曰く「わたしたちが数年前病棟を開放し、患者を外出させたり、住民を病院に招待したとき、街全体は恐慌に陥った。そのため当時、町は精神医療という現象に直面することになった」という。わたしは皮肉にもアルコール中毒専門の精神病院である新生会病院でこの本を知った。当時二十六歳を目前としたわたしは疲弊し、大阪は西成区役所に助けを求め、ようやく和泉中央への切符を手に入れた。精神上の飢えを癒せるかとおもきや、与えられるのは薬と薬と薬だけであり、ほかの患者たちも適当に雑談をするのみで、なにもなかった。
 定期的に酒害体験発表がおこなわれる。つまるところ口の運動か、もしくは音声学の一種である。たとえばひとりの人間が語るとき、もはや喋ることは決まっていて毎回おなじところからはじまり、おなじところで切りあげられてしまうのだ。まさに酒にまつわる事象のなかでしか生きてこなかったように、奥行きのない話しがつづけられる。医者たちは無言だ。わたしの場合はとくに精神上の病いが複数かさなっており、語るならば産まれてからの一切を話さなければならないのに、とてもそんな状況にはなかった。そのうえカウンセリングもない。
 当然その状態で酒を断つのはむりなことだ。わたしは飲酒した。そして三度発覚した。医者たちは無抵抗のわたしを白い鉄格子のむこうに閉じ込めた。そこにあるのは帆布の寝台と、床にあいた小さな穴、便所紙、半端な大きさのアクリル板だけだ。天井にはきつい照明がひとつあった。看護婦はいない。飯のときを除いてだれもそこにはやって来ない。硬くざらついた帆布に横たわり、本を読むことも禁じられ、形式だけの反省を強いられる。そしてアクリル板で隠されてるといえ、廊下からまる見えのところで用を足さねばならないときた。それを三日間行う。まさに懲罰であり、拷問に等しい。こういった行為が平然とあるなかで「自由こそ」ということばの響きはまことに甘美な虚無でしかなかった。
 医者たちはいちどでもあそこに入ってみたことがあるのだろうか。三日間なにもできず、鉄格子をまえにして排泄するということを体験し、真に効果を見いだした、根拠を裏づけたものがあるのだろうか。問うまでもないことだ。なにも知らないからこそできる行為なのだ。「精神科医の教育とは拷問人としての教育に等しいのだ」ともバザーリアは語っている。和気先生、こういった諸問題について主従関係なく語ることがあなたにできるだろうか?──Per favore, Buon lavoro. けっきょく患者を悪循環に浸らせ、病者をさらに病者にしておこうという策にほかならないのではないだろうか。

2.05.2014

第二詩集、入稿

火曜日

 きょうようやく第二詩集の入稿を終えた。たった六冊でも13,650円もかかった。師匠の森先生からは「立原道造だって初版は10部だったんだぞ。中原中也なんて受注生産ってのに注文が来なかったんだからな」と仰る。しかしわたしにはかれらのような才気には乏しい。そう自覚するからこそ現実が寂しく、過古への郷愁がやまないんだ。なんだか悲しい。
 来週の月曜日は仕上がる予定だ。

「死んだ馬にまたがって」

 かぜに
 なぶられ
 路上
 にすりきれ
 立ちあがることも
 できず
 おもいだすのは舞台のうえのきみ
 ほかの客たちは
 きっと
 ひやかしに
 ちがない
 でも
 ぼくはいつまでもいたかった
 かぜは
 きりきざむ
 新聞記事を
 なんでそうなってしまうのか
 なにもわからずに
 でもひとつ
 ささやかな
 夢を描いて
 舞台のうえのきみを
 ほかの客たちはからかった
 きっと
 ばかものに
 ちがいない
 ただ
 ぼくはいのこりたかったんだ
 できれば馬に
 またがって
 いますぐ馬に
 またがって
 町をぬけだそう
 でもそれは死んでて
 走りそうにはない

1.19.2014

日記

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 粗悪な食事のせいか、顎に皰ができてしまった。胃の具合もわるい。きのうはほとんどボルトネック奏法を試すのに費やした。ただし調律は変えなかった。制作中の楽曲「うまくやりおおせればいいけれど」の間奏に使用しようとおもってだ。
 アルバムの中核曲になるはずだった曲、「だれもない待合室」は歌詞を変更することにした。より抽象度の高いものへと変えた。曲自体も短縮。なんせソロを入れるすきまがないのだから。

1/18

 きのうようやくにして「海」改め「海辺の叙景(題はつげ義春の漫画よりイタダキ)」のドラムトラック完成。間奏のフレーズも決まった。この曲はもう十年まえから試行錯誤だった。
 昼前Joy Divisionの「Heart and Soul」が届く。さっそく聴いてみてややがっかり。オリジナルアルバムの構成を破壊してしまってる。一枚めに21曲も収録するのはどうかとおもう。くどいのだ。素直にオリジナルアルバム二枚と未収録集、デモ音源で四枚なら納得がいくのだが。最後のライヴ音源は正直蛇足。
 映画「My life without me」雑感。主人公のおもうようにことが進みすぎてる。おなじ監督の「talk to her」のような複雑な感情の流れもさしてなく、主人公の死に向かっていく姿勢はほとんど変化がない。なにもかもお膳立てがそろいすぎてるような気に捕われる。一般大衆向けの浅く短い作品という印象。

1/19

 朝、楽曲「だれもない待合室」のドラムを書き直す。しかし力尽きて眠る。昼、森忠明に電話。序文についてのやりとり。そのあと詩集のサンプルを手製本で仕上げる。うまくはいかなかった。まあ、あとはプロの腕にまかせるしかない。しかし予算なく、貯金するのもむつかしい事態にある。さて来週、どうやって乗り越えようか?──とりあえずは雑誌の執筆依頼のために数部印刷及び製本するにとどめるか、あるいはエフェクターを買うかだ。
 きのう西村玄考氏、わが室に来る。四時間も喋った。正直だいぶ消耗した。普段まったくひとと会わないからだ。これからはもっと間口を広げよう。とにもかくにもあと半年しか時間がない。


1.16.2014

第二詩集「38wの紙片」と出版局「a missing person's press」

 もうじきわたしの第二詩集「38wの紙片」が、わたしの立ち上げた出版局「a missing person's press」から刊行される。この詩集は雑誌「for MISSING /the magazine」の執筆願いとともに配布され、そのほかは販売する予定だ。きょうの午后依頼してた師匠による序文が届いたので、わたしのあとがきとともに公開する。

ゼロの殺処分
                     森忠明(詩人/童話作家)

 私の弟子たちのうち、いちばん礼儀正しかったのは酒鬼薔薇聖斗であり、いちばん無礼だったのは中田満帆である。二十歳前後だった神戸出身の両者に共通したのは、人間があまねく相続している二種の遺産、「呪い」と「ことほぎ」の比率が前者にうれしく傾きすぎていることであった。私は「病人」以外の文学や、宿業と恥辱の単位を取っていない若者には興味がない。
 十九歳の中田満帆が入門してきて十年、狂にして直ならぬ多形性倒錯的エクササイズのオンパレードに一番弟子たる園田英樹は、「あの男を切るべきです」と、ピカチュウが激怒放電するごとく言い放ったりした。中田満帆のマルチクリエーターぶりを面白がり、微笑をもって評価したのは当時中学一年生の我が娘ぐらいなもの。
 さらに無礼なのは当人だけでなく、彼の父君は『寺山修司選・森忠明ハイティーン詩集』をゴミに出してしまったのだそうである。それでもなお今日まで破門できなかった理由は、私が選んだこの詩集(初期のテロル詩というべきものは省いた)を読んでもらえば分かるかもしれない。
 彼は一時、マニ教でいう悪魔の苦渋"酒"に溺れ、飯場のメチャコワ法則に脅され、旅芝居の親方にヤキを入れられたり、どんな一流大学でも体得できないことを破局寸前まで味わうのだが、その命および敗者の気品を終始守護したのは、生まれつきの道化性と、これらの復讐天使代行詩群であったはずだ。

 大昔(一九六七年)、十九歳の森忠明は、「集団出世をしよう」とのたまう師に対し、「無意味を確認するためですね」などとほざいて白けさせ、近年は中田満帆に無名のエクスタシーを説いて失望させたけれど、「世界の再魔術化(プラトン)」、つまりゼロの魅力回復を信じているらしい師と弟子の、無制約、無懲戒、純粋遊戯に、いささか生かされていることを白状する。

                 二〇一四年一月一三日 寝流庵にて


あとがき

 29年にもなる人生のなかでさんざやりこめられ、吹き流されてきた。花に嵐の喩えをいやというほど味わってもいる。27番めの晩秋、ようやくにして流れものの暮らしが終わり、アパートメントの三階に居を定めた。そしてわたしがはじめてやったのは、短篇小説の執筆と絵葉書の制作販売だった。幸いにもちかくの新古書店「Books Curlis」が売り場を提供してくれた。なんたる吉報!──とおもうのもつかのま店は移転計画のために閉じられてしまった。次にわたしは冊子形式の詩集「終夜営業|Open 24 Hours|発送受付」を書き下ろし、いくらか金を手にした。もちろんのこと、元手なんざ穫れるわけがない。インターネット上の詩人たちが買い、あとは配布するにとどまった。そして1年わたしは沈黙した。幾度かを病室で過ごし、不在感に蝕まれつつある自身をただただ儚み、涕さえした。わたしは生来にしてどこにいようとも、どこにもないという触りがやまず、耐えがたかった。去る年の雨季からようやく詩を再開させた。気分にまかせて題をつけ、あとはそいつがひっぱってくれるのを待つだけでよかった。ほとんど澱みを知らないみたいにやらかして作品はしあがってった。
 そして冬になった。森忠明は電話口でいった。曰く「同人誌をやりなさい」と。しかしここで告白するにわたしは同人誌という語にひどく反発を憶えた。詩文学のつどいがどれほど閉じられた、同類同士の、魂しいのカマの堀りあいかをさんざ見せられてきた身にとって、詩だけの、文学だけの連中には厭いてしまってた。純粋藝術なんざ、とっくに終わってるんだ、もっと雑食性のある場があっていいだろう、どうして詩だけがはじきだされなければならないのかってことをおもった。それで考えついたのが出版局「a missing person's press」だ。そこではなんでもありにしたい。しかしだ、いちばん大事なものは記名性だ。インターネットはおろか、まっとうな詩誌ですら、ちゃちでばかげた筆名のが跋扈して、だぼらを吹いてまわってる現実で、どれほど身を賭して駈けるかだ。日々は丘を越える野生馬のように走り去る。かれらはインターネットや詩壇なるものに巣くう蠅どもなんか気にもとめやしない。この詩撰集は出版局ならびに雑誌「for MISSING/the magazine」へむけた案内人であり、発火点になるだろう。閉ざされながらも、しかしやり遂げようしてるひとびとをわたしは見いだしたい。でも、わたしだってたかが知れた存在だ。失敗もある。そんなときは腕のたしかな鍛冶屋を紹介してくれ。自己と他者の二重否定や、ひどくありふれた嫌悪やこっぴどい宿酔いを叩き治してくれるところをだ。それでは失礼──愉しんでくれるのを願ってる。ああ、そうとも。



12.26.2013

日記

12/15

 きょうも「海」の間奏に費やした。より音数を削って歌を際立たせるようにした。またもオープンのコードの乱用だ。じぶんはタフではないから、つねに心を低く構えなくてはならない。わが師森忠明はわたしを担ぎすぎだ。もう「才能がある」、「タフだ」などといわれて舞い上がる、齢でも状況にもない。だってわたしは普遍性に焦がれる、ただの弱い生きものにすぎないのだから。気がつけば泣き虫になっていた。昨日とどいたJames chance & The contortionsやなんかを聞きながら可能性を探る。しかし普通のひとはこんなことをせずとも、ちゃんと暮らしていけるのだ。できそこないにはそれができない。
 それでも最低限いまのアルバムと地下雑誌はなんとかものにしたい。それでなにもかも喪ったとしてもだ。男やもめに残されるのは花か灰のちがいでしかないからである。

12/16

  七月の雑種のような気分。ただしいまは十月だが──チャールズ・ブコウスキー「死をポケットに入れて」

 なるほどとおもうときがある。おれの人生などこんなものかと。最近は寝たきりだ。きょうは酒を呑んでしまったからデモ録音はなしになった。ただ夜になってサウンドチェックをし、岩明均「風子のいる店」を読む。このまえの押見修造「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」につづいて、吃音の少女の話し。わたしも吃音に悩まされてた。理由は簡単だ。ひとが怖かった。いまだって直りきってはない。
 夏場にビールのいっぽんもありつけず、室のなかでさまよってるときをおもう。われわれはみな孤独だ。けれどそれを通り越したものは限られてる。おれの親父はかつていったものだ。「おまえはおれより早く死ぬ」。その通りだ。ほんとうに正気なら、とっくにこの人生を塵にしてる。だがわたし自身の存在が疎まれようが、作品を赦してくれる人物は少なからずはいる。生きるあてはそれくらいもの。
 まあ、休み休み。来年の半分までには。

12/19

 きょうはひとに送るために文章を整理した。この二年間の活動をまとめている。そろそろ「一太郎」の試用期間も切れる。しかし今月買えそうにない。まだ小説の校正も残っているしで、頭がいっぱいだ。以下はそのなかのひとつだ。

12/20

 きょう郵便をだした。作品集だ。散文もようやくなれてきたので四篇のみ入れた。詩は大半を改修し、小説は三篇に絞った。残りはいずれだ。あとは配布用詩集と地下雑誌の企画書、執筆願いを書きあげなければならない。とにかく時間がない。音楽のほうではベースの修理と練習がまっているうえに作曲の指南書も必要だ。あとはJoy divisionをコピーしよう。バーナード・サムナーとピーター・フックの両方ができる。きのうは徹夜だったから、きょうはもうお休みだ。

12/24

 身動きのとれない日々がつづく。終わりのないところに迷いこんじまったいみたいにだ。創作のほとんどは停滞し、いまは来年創刊するリトルマガジンのために見本作品集をつくっている。これは文藝だけでなく、イラストやエッセイも入れるのでコストがなによりも心配だ。来月はベースのリペアもあるしで、厳しいもの。

12/26

 おもてを消防車が走り回って、わめきちらし、通りを怒り狂った牛みたいに過ぎていく。赤い旗をだれかふってやれ。信号機は雨のなかで栄光を誇り、だれもいないところを照らしてる。わたしは傘を持ってない。あいくにく夕飯は残りもののスパゲッティときた。
 森忠明からの忠告、あんたのエッセイのように小説を書きなさい、中井久夫を基準にしなさい、人称は統一しなさい。いくつかの本とCD、そしてアナログディレイを買った。そして配布詩集の雛形を完成させた。あとはベースとギターの練習だ。無料のTABをネットで見、休み休みに本をとる。中井久夫「世に棲む患者」。まだその味わいはみえてこない。ベルベッツを聞き、料理に取り掛かる。精神はあっても感情がない。きょうもだ。


12.19.2013

インターネットと詩人についての断片(再編集版)


                                                         あぶれものの、あぶれかた──私見、局外者と記号的空間の関係



いわば情報社会における人間相互間のスパイである
                                                       寺山修司/地平線の起源について(「ぼくが戦争に行くとき」1969)




 小雨のおおい頃日、わたしはわたし自身を哀れんでいる。あまりにもそこの浅い、この二十七年の妄執と悪夢。なにもできないうちにすべてがすりきれてしまって、もはや身うごきのとれないところまで来ている。あとすこしで三十になるというのにまともなからだもあたまもなく、職までもないときている。そのうえ、この土地──神戸市中央区にはだれも知り合いすらいない。もっとも故郷である北区にだってつながりのある人物はほとんどない。
 わたしが正常だったためしはいちどもないが、日雇い、飯場、病院、どや、救貧院、野宿、避難所──そんなところをうろついているあいまにすっかり人間としての最低限のものすら喪ってしまい、もうなにも残ってはいないような触りだ。ようやくアパートメントに居場所を手にしたが、ここまできて正直をいえばつかれてしまった。回復への路次を探そう。
 考えるにインターネットは人間の可能性への刺客──同時に人間関係への挑戦状であって、その接続の安易さによっておおくの創作者をだめにしている。しかも偶然性に乏しいく、なにか出会うとか、現実に反映させることはむずかしい。広告としての機能はすぐれているが、単純に作品を見せるにはあまりにも余剰にすぎるのだ。
 無論、巧く立ち回っているものもいるし、もちろん、これは社会生活から、普遍から脱落してしまったわたしの私見に過ぎないのだが、この際限のないまっしろい暗がりのうちでは、なにもかもが無益に成り果てる。作品のあまたがあまりにも安易にひりだされ、推敲はおろそかになり、他人への無関心と過度な自己愛を、悪意をあぶりだされ、あらわにさせる。せいぜいがおあつらえの獲物を探しだし、諜報するぐらいではないのか。創作者のなかには好事家もおおく、無署名でだれそれの噂話しをしているのをみかけた。
 そのようなありさまで現実でのあぶれものは、やはり記号のなかでもあぶれるしかないのである。身をよじるような、顎を砕くようなおもいのうちで意識だけが過敏になっていき、あるものはその果てにおのれをさいなむか、他者に鉈をふるうしか余地がなくなってしまうのだ。やはり現実の定まりをいくらか高めたうえで、少しばかり接するほどがいいらしい。
 寺山修司は映画「先生」について述べている。曰く《先生という職業は、いわば情報社会における人間相互間のスパイである》と。先生をインターネットにおきかえても、この一言は成り立つだろう。おなじくそれは《さまざまな知識を報道してくれる〈過去(エクスペリエンス)〉の番人であるのに過ぎないのである》。ほんとうはもっとインターネットそのものに敵意を抱くべきなのだ。それは生活から偶然を放逐し、あらゆる伝説やまじないを記録と訂正に変えてしまった。しかし、《実際に起こらなかったことも歴史のうちであり》、記録だけではものごとを解き明かすことできないのである。〈過去(ストーリー)〉のない、この記号と記録の世界にあって真に詩情するというのは、現実と交差するというのはいかなることなのか、これに答えをださないかぎり、ほんとうのインターネット詩人というのものは存在し得ないし、ネット上に──詩壇──くたばれ!──は興り得ないだろう。俗臭の発ちこめる室でしかない。
 わたしはあまりにもながいあいまにこの記号的空間にゐすわりつづけた。そのうちで得たものよりは喪ったもののほうがおおい。現実の充足をおろそかにし、生活における人間疎外を増長させたのだ。詩人としての成果といえば、中身の乏しい検索結果のみである。あとは去年いちどきり投稿した作品が三流詩誌に載ったくらいだ。原稿料はなし。
 わたしはいやしくとも売文屋や絵売りや音楽屋や映像屋になりたかったのであって、無意味な奉仕に仕えたいわけではなかった。
 しかしこの敗因はインターネットだけでなく、わたし自身の現実に対峙する想像力と行動力の欠如にあったとみていいだろう。けっきょくは踊らされていたといわけだ。このむなしさを克服するにはやはり実際との対決、実感の復古が必要だ。想像力を鍛えなおし、歩き、ひとやものにぶっつくことなのだ。そうでなければわたしは起こらなかった過古によってなぶられつづけるだろう。 
 不在のひびきが聞えてくる。いったいなにが室をあけているのかを考えなければならない。対象の見えないうちでものをつづるのはなんともさむざむしい営為だ。創作者たらんとするものは、すべからく対象を見抜くべきだ。見える場所をみつけるべきなのだ。
 わたしのような無学歴のあぶれものにとっては技術よりも手ざわりを、知性よりは野性をもってして作品をうちだしていきたい。というわけでいまはわたし自身による絵葉書を売り歩いているところである。そのつぎは手製の詩集だ。顔となまえのある世界へでていこう。
 それははからずもインターネット時代の、都市におけるロビンソン・クルーソーになることだ。──小雨のうち、いま二杯目の珈琲を啜る。午前十時と十三分。ハウリン・ウルフのだみ声を聴きながら。詩人を殺すのはわけないことだ。つまりそのひとのまわりから風景や顔や声を運び去ってしまえばいいのである。そしてすべてを記録=過去(エクスペリエンス)に変えてしまえばいいのだ。文学はつねにもうひとつの体験であり、現在でなければ読み手にとっても書き手にとってもほんものの栄養にはなりえないだろうとわたしは考えているところだ。
  夏の怒濤桶に汲まれてしづかなる──という一句があるようにインターネットはあくまでも海という過古をもった桶水の際限なき集合であり、現実や人間の変転への可能性はごくごく乏しいものなのである。

                                           ひらけ、ゴマ!──わたしはでていきたい(スタニラス・ジェジー講師)。


 わたしの気分はこれそのものにいえるだろう。まずはネットを半分殺すとして、ぶつぶつとひとのうわさにせわしない、好事家よりもましなものをあみだす必要があるだろう。また紙媒体の急所を突くすべをあみだすことだ。ともかくこれからなにかが始まろうというのだ。最後にもしもインターネットになんらかの曙光があるとすれば、そこにどれだけの野性を持ち込めるかということだろう。
 集団や企業によってほぼ直かにいてこまされることが前提となっている、あるいはだれにも読まれないことが決まってる、記号的空間のうちにどれだけ、もうひとつの現実を掴むことが重要な段差として展びていく。──けれどそいつはほかのやろうがひりだしておくれよ。
おれはいま、しがない絵葉書売りに過ぎない。ふるいアパートメントの階段がしっとりのびていき、その半ばへ腰をおろすとき、はじめに見るのはおれの足先だろうか、それとも鉄柵よりながれこむ光りだろうか。